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信じる者は救われない(涙)。

ああ。
自分から痴漢騒ぎの元・学者のことを書くのは、些か面倒の様な気がするので、最近は忘れていたのだが…

いえ、色々な方々が、とあるブログについて、コメントを書かれているのだが、お互い「間違っていることを教えよう!」という思いに囚われているような気がしたのです。

確かに、かのブログは、もはやどうしようもない弁護に終始しているのは間違い無いのだが、それだけではない。

結論を決めて、証明活動をするという行動に他ならないのだ。



実は、これは何もかのブログだけに起こる事ではない。

自分の中にも起こる事なのだ。

「中」というけれど、実際、かのブログ作者が呪う冤罪なんて、正に同じ思考・感情のなせる業なのだから。


簡単に言えば、作者がやっているのは、ただ単なる感情に任せた結論からの逆算的証明ですわ。

結論を固定しておいて、その結論を何とか合理的に説明しようとする行為。

これは、既に科学ではないわけですが。



何でこんなことを書いたか?と言いますと。

最近の科学の世界でも、皆さんもよくお聞きになる、論文の捏造というのは、この行為が行き過ぎた先に存在するもので、昨今、これが多すぎることを思い出したからだ。

まあ、これを起こす動悸としては、行き過ぎた結果主義があるのは間違い無いと思うけれど、それはさておき。

こういうのは、理性的な科学の姿ではないよな~。


では、そもそも「科学」って、何でしょ?

哲学の時間の記憶を紐解けば、語弊を恐れずに定義すると、誰がやっても『同じ答え』になる事という事になるらしい。

そこには、人間の感情から導き出されるものは、極力排除されるということになる。

何故なら、感情には、『一つにまとまる答え』がそもそもなく、またそれがありえたとしても、誰もが同じルートを辿って到達する訳ではないからなんですよね。

こういう感情が主に働く答えの出し方を主観的価値判断という。

つまり、感情が天秤にかけて、『どちらが良さそうか?』を感覚的に判断するものだから、その判断には、論理性とか同一性は、殆ど無いことになる。


で、世の中の事が、そんな風に答えが一つというのも困るし、中々無い訳なのですが、科学の世界では、そうでなければ何の価値も無い。

しかし、だ。
結果を求める人間の感情が、結果から逆算的に証明をしようとすることが、科学の分野ですら起きているのですわ。



これは、人間の良心が最も試される瞬間でもある。




今、アメリカでは、日本人研究者は、一つの『ブランド』でもあるという事、ご存知でしょうか?

あまり他国の事をあげつらうのも何なのですが、正直、中国とか韓国の研究者は、かなり敬遠される傾向が強いのだそうだ。

色々な原因はあるのだが、たった一つ挙げろ!と言われれば。

「ウソを平気でつく。」

この点なのだ。



我が友人・博士に聞くと、確かに同じアジア人でも、中国・韓国の二国の研究者には、共通の癖がある。

それは。
自分のアピールは上手いが、それが極端で、相当のウソが入る事なのだそうだ。

簡単に言えば、知らないことでも「俺は知っている」と言うし、やった事も無いことでも、「出来る!」と言い張って出来ずにいて、それを周りのせい…人種差別的な原因に求めようとしたりする傾向がある…らしい。

これは、彼以外にも聞いた事があるので、どうやら国民的な性格らしい。

しかし、これが科学の分野となれば、マイナスに働くのは間違いあるまい。

そういう彼らが研究をすると、捏造とはいえないかも知れないが、その寸前、又はスレスレの行為になる事を平気で行ってしまう。


つまり。
どうしても出したい結論の為に、寧ろ強引に実験データを結びつける挙に出るのだそうだ。

これが、度が過ぎる場合が多くなってきているそうだ。



科学の論文の場合、「こういう実験を追加して実験せよ」と雑誌の選考者たちから要求される場合が多いのだが、彼らのような論文の場合、そもそも論拠に疑問符がつくようなものすらある。

科学の論文として価値が高いのは、同じ分野の研究者達が追試実験を行い、同様の結果が多数出る事なのだが、彼らのデータの場合、どのようにも推認できるような結果しか出ない実験で結論付けている場合が大変多い、と聞いた。


しかし、ねぇ。
幾ら科学の世界と言ってもだよ~。

余りに不自然だと、誰でも偽造に気付く訳で。

そして、感情の面でも酷く嫌悪し軽蔑するようになる。

そうして、信用が失われてしまう訳だ。



あのブログの作者が嫌われているのは、正にこういう点で、だろう。
簡単に言えば、膨らんだ自己の欲望で、何でもかんでも自分の思い通りにしないと気がすまないという人間性が垣間見え、腐臭を伴って回りに触れ回るので、嫌悪感に耐えられないのではないだろうか?

これは、科学ではない。
正に、主観的価値判断のなせる業。

だから、お互い話が噛み合わない。
当たり前だ。
だって、お互いの中で重きをなす価値観がそもそも違うのだから。




でね?
人間、『信じる』という事は、確かに、一つの『強いパワー』であることは間違い無い。

それは、生きていく上でも、とても大切な場面がある。
特に、自分を信じることは、人間、一番出来ないことかもしれないが、自分しか「寄るべ」はないのが人生だから、「たとえ失敗しても、大丈夫、自分はまた立ち上がれる!」と思うことは、何にもまして大切だろう。

しかし、だ。
『信じる』という事の裏返しが、当然存在する事も、また知らなければならない。

それは…

思考停止。

どんな人も、この暗黒面を軽視しているように思える。


特に、宗教教育が、あまりなされていない日本人は、こういう経験がないのだろうが、「正しい価値」などというものを教えられると、人間、思いの外それに頼ろうとするんですよね。

何故か?

楽だから。

何も悩まなくて済むというのは、本当に楽です。


人を信じるのも、全く同じ。
信じるというのは、素晴らしい事。
特に信頼できる人が周りにいるのは、本当に素晴らしい事です。

子供が周りに生まれると、特に親ってありがたいと思うよな~。
無条件に信じてくれるというのは、親しか出来ないかも。



しかし、だ。
仮に、人間が判断するのが感覚というあやふやなものであっても、判断の材料があれば、色々と考えるのが正に人間であるのに、そして、それをこそ人間の凄さでもあるのに、だ。

『正しい』答えなどと言い切ると、ワタクシは生理的にそいつに向かって立ち小便でもかけてやりたくなるんだよな~(汗)。

だって、さ。
『正しい』という言葉と考え方は、既に即ち「一つしかない」という思考そのものを表している。

とすれば、そういう言葉を平気で吐くということは、自分の価値観の絶対性を信じていて、他に考えようとしないことを暗に表している。

つまるところ、「自分だけが『正し』くて、他は全て『間違っている』のだから、自分の価値にみんなが『従わなければならない』」と、文字通り信じきっていることになる。

即ち、思考が底から始まって、停止してしまっているのだから、「他の人間など、丸で価値が無いから、尊重などする必要は一切無い」と考えているのは、殆ど間違い無いだろう。

ということは、「オレが最高!他は、みんなバカ」と思い込んでいるということになる。

だから。
ワタクシは、そういう手合いは普段は放っておくが、ワタクシにも強要し、あまりにも「正しい」を連発する人間には、論理で矛盾を突き、完膚なきまでに否定して、心まで破壊するという暴挙に出ることすらある。

それが、自分が一切採らないような意見を用いても、ね(笑)。

当たり前だ。
喧嘩なんて、何使っても「勝ちゃあ何しても構わん」のだから(大笑)。



まして。
人間なんて、色々な面があるのに、まるきり正解!なんて信用の仕方をするかねぇ?
勿論、疑え!とまでは言わないが、少なくとも、信じたいという心は、横に置いといて、考える材料を肯定否定どちらからも集めるのが、筋ってもんだよな~、と思う。


それが出来ないのであれば…
身を引いて、他人に任せるのも、一つの手だな。




議論というのは。
「そもそも正解など一つの訳が無い」という、絶対的価値観を持たないという事から出発している訳だから、話が噛み合わない人間は、元々、他人の意見を必要としていないのです。

そういう人間が欲しいものは、自分に対する同意、追従、おべっか、そして羨望です。



だから。
ああいう手合いには、なるべく触りたくないなあ。



幾ら言っても始まらないから、まともに「こう言った」とか取り上げず、寧ろ、自分の思索的な過程を振り返り、他の人の筋道などと絡ませて、またまた自分で考える方が、ずっと面白いのではないかなあ、と、自分自身への反省と共に考える次第であります(汗)。




正に。
己の「正しさ」を「信じる」者は、どうしても救われないのでありましょう。

信じて救われるのは、自分は変われるという前進できる力の方ではないかなあ。

by uneyama_shachyuu | 2006-11-06 23:42 | 小人閑居