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あまりにも…

あまりにも突然のお別れでした。

オートバイレーサー阿部典史さん事故死…公道でトラックと衝突

2000年の日本グランプリで優勝し、ウイニングランをする阿部典史さん(ロイター)
 オートバイのロードレース世界選手権で3回優勝している有名レーサー、阿部典史(あべ・のりふみ)さん=川崎市幸区、写真上=が7日夜、川崎市内でオートバイを運転中にトラックと衝突、病院に搬送されたが、死亡した。32歳だった。

 川崎署によると、7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で阿部さん運転のオートバイと男性会社員(51)運転の4トントラックが衝突した。トラックがUターン中に、右後方から阿部さんのオートバイが突っ込んだとみられる。阿部さんは午後8時50分過ぎに病院で死亡した。

 現場は片側2車線の直線道路で、Uターン禁止場所だった。同署は自動車運転過失致死容疑で男性会社員から任意で事情を聴いている。

 阿部さんは「ノリック」の愛称で人気のレーサー。1993(平成5)年に全日本ロードレース選手権500ccクラスで史上最年少チャンピオンに輝き、翌年から世界選手権に参戦。96年の日本グランプリで初優勝、00年の日本GPも優勝するなど世界選手権で計3回優勝した。表彰台には計17回立つなど日本の第一人者だった。

 今年5月からは13年ぶりに国内のレースに復帰。7月の鈴鹿8時間耐久ロードレース(8耐)にも初出場したが、9位だった。9月の全日本ロードレース第6戦(岡山)に出場したのが最後の公式レースだった。

■阿部典史(あべ・のりふみ)
 1975年9月7日、東京都生まれ。父親はオートレーサーの阿部光雄。5歳からバイクに乗り、91年の中学卒業後に渡米しレース修業。94年から世界選手権に参戦し、96年の日本GPなど3回優勝した。

◆現役レーサー、中野真矢選手(29)
 「あまりに突然のことで驚き、言葉もありません。ノリックさんは先輩ライダーとして世界のトップを走るあこがれの存在でした。レース界にとってとても悲しい出来事です」


サンスポ10月8日更新



ノリックが交通事故死、トラックと衝突
10月8日10時4分配信 日刊スポーツ


 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。
 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。
 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。
 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。
 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。
 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。

最終更新:10月8日10時4分


ノリック、事故死…GPライダーの阿部典史さん、トラックと衝突 世界選手権で3勝するなど、世界的に活躍するレーシングライダーの阿部典史さん(32)が7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市内の市道で、スクーターに乗っていてトラックと衝突、病院に搬送されたが同日夜、死亡した。“ノリック”の愛称で親しまれた阿部さんは、10代のころから世界を舞台に活躍。今年は13年ぶりに国内レースに復帰していたが、サーキットではなく公道での事故で帰らぬ人となってしまった。

 川崎署によると、現場は片側2車線で比較的交通量の多い道路。左側の車線を走っていた4トントラックが、急にUターンしようとした。右側車線から来た阿部さんの500ccのスクーターが、中央分離帯近くでトラックの右前部に衝突。現場はUターン禁止だった。同署では、自動車運転過失致死の疑いで、トラックの運転手(51)から詳しい事情を聴いている。

 全身を強く打った阿部さんは、事故現場では意識があり言葉もかわせた状態だったというが、午後8時52分、搬送先の病院で死亡した。スクーターは新車で、この日は慣らし運転を兼ね横浜市内の知人宅に行っていたという情報もある。

 5歳からオートバイに乗り始めた阿部さんは10代のころからレースで活躍。攻撃的なライディングスタイルで注目を集めた。スポット参戦した1994年のロードレース世界選手権(WGP、現在のモトGP)日本GPで無名ながら世界のトップライダーと首位を争いを演じた。

 この時の走りが認められWGPのヤマハのワークス(メーカー直属)チーム「マールボロ・ヤマハ」と日本人として初めて契約。翌年からフル参戦し、96年と2000年の日本GP、99年のブラジル・リオGPで通算3勝を挙げ、計17回表彰台に立った。

 モトGP5連覇のバレンティーノ・ロッシ(イタリア、ヤマハ)が阿部さんにあこがれ、その名をもじり「ロッシフミ」と名乗ったことでも知られる。今季は13年ぶりに全日本ロードに復帰。ここまで総合3位につけていたが、9月30日のシリーズ第6戦(岡山国際)が生涯最後のレースとなってしまった。

 長く在住したスペインから帰国した阿部さんは、同市幸区内に妻子とともに在住していた。父でオートレーサーの光雄さん(58)は「今警察にいますが、私にも状況がよくわかりません」と動揺を隠せない様子だった。

 ◆阿部 典史(あべ・のりふみ)1975年9月7日、東京都生まれ。オートレース選手の父の影響で幼少時からバイクに親しみ中学卒業後の91年から米国でレース修業。93年に18歳の史上最年少で全日本選手権500cc総合王座獲得。94年にWGP初参戦。95年からはフル参戦し、WGP通算3勝を挙げた。2005年からスーパーバイク世界選手権に参戦。今年から全日本ロードレースに国内復帰していた。

(2007年10月8日06時04分 スポーツ報知)




ワタクシの知り合い(極真フィリオの兄弟子で、様々ないわくつきの二枚目)が、まったく同じ状況で同じ事故に遭ったことがあります。

相当スピードを出していたのに、彼は骨折程度の怪我で済みました。

…ただ、病院で警察の取調べや保険屋との話し合いでは、ワタクシたちを指導して下さっていた弁護士さんをお見舞いに呼んで同席させ、自分のスピードオーバーの事実を覆い隠して法廷速度を主張し、闇雲に『信頼の原則』を持ち出し、保険屋に弁護士さんを意識させて単に訴訟をちらせかせつつ、半ば脅しあげて過失割合ゼロを飲ませたのは、まことに見事としか申し上げようが無い(汗)。



でもね。
これも、彼が生きて元気でいてくれたから、笑い話として思い出に残ること。

そのまま死んでいたら、そんな話にはならなかったのです。



トラックの運転手には、何も言うまいとは思うが、やはり腹立たしい。

飲酒運転事故で刑務所に送られても、出てきたら結局免許を取るバカばっかりと聞くと、やっぱり腹立たしい。



今後、レース界に必要だったのに…
しかし、彼も旅立ってしまった。


あまりにも早いお別れです。

by uneyama_shachyuu | 2007-10-08 10:37 | 時事